Unrestricted

最近、ものの読み方だが、色々と知らない英単語に敏感になってきた。ただ、単純に知らなかっただけ、というパターンも多いが、今一度調べ直してみる必要がある言葉も多い。以外と使えているようで、微妙にニュアンスが違ったまま、理解したつもり何十年もその言葉を使うなんてことはザラにあり得るからだ。後は翻訳の仕事を始めると、実は普段英語を話すときは使うような言葉も改めて日本語に書き起こして見ようと思うと、「はい、どうやって訳せばいいんだろう?」と思うことがある。その中で今回出てきたのが、unrestrictedだ。

Unrestrictedとは「制限がない」、つまりなにかしらの制約によって束縛されていない、または雁字搦め(がんじがらめ)に合うような窮屈な状況では無いことを表す。

実は日本語で訳すと「『自由』て訳したらええやん」と突っ込まれてしまう勢いだが、ここは大航海でどんどんと世界中の領土を植民地化してしまった国々の言葉だけあって、束縛がない、制約がない状況を表す類語が非常に多い。あまりにも多く驚いた。たしかによく見ればそれぞれが少しづつニュアンスが違う。

英語では、束縛や統制という考えにもそれが受けて(束縛される方)にどんな影響を与えるか、などの考え方かたくさんあるという事がわかると思う。それに対して日本語ではこのコンセプトに纏わる言葉そこまで多くない…

最近類語を見て、色々な新しい言葉を勉強していますが、英語という言語と日本語という言語の特性などな垣間見れて、大変参考になる今日この頃です。

Memo: The Lost Graves of Louisana’s Enslaved People

アメリカはルイジアナ州での土地の保存の話。この9分程度の取材は色々な角度からこの題材を取り上げている。公共問題、奴隷問題、風習や歴史の保存。これらはたまたま近しい関係性にあるが、実はそれぞれはあまり密接的な関係性を持っていないような気がする。

日本に住んでいると、かつて奴隷だったアフロ系アメリカ人の色々な想いというのは尚更、複雑だと思うことがある。かつては先祖が過酷な労働を強いられていたが、今となっても子孫達はその土地に居残り、今度は大手企業による土地の開拓で自然や文化が壊されるのを阻止しようとしている… 心境についてはやはり本人達ではないとわからないものがあると思う。

色々とどのような関係性を持つかは理解することが難しいが、一点森林化した黒人奴隷の墓地を保存しようとしているところが興味深かった。奴隷が解放され始めてからほぼ200年が経とうとしている。日本でも古墳などを始め、神社(一部の寺)などの神聖な場所は先祖の墓地として使われていたことが多い。日本中でも神社があるところなどは土地としても標高が高い、地盤が固いなどの特徴があり、木々に覆われている。こういうところは国が違えど、歴史の深さに違いがあれど、同じ何だな〜と感心した。

ルイジアナ州はまだ訪れたことがないので、どこかで行ってみたいとも思う。

Quality vs.  Quantity  ☓質か量か → ○質か分量か

昨日ふとした事を考えていたときに気がついた事がある。あまりに驚愕な事実に気がついてしまったためメモをしたい。

21世紀的な考え方な台頭的な考え方として「質か量か」という議論がある。1850年頃から世界各地で始まった産業革命の影響で、我々人類は色々な物質的な「モノ」を作り始めた。これらの中には食品、医療、そして(最新)の技術が含まれる。今の世の中では「モノが溢れかえっている」という批判的な見方もあるかもしれないが、世界中にある程度の基準の技術を万遍なく行き届かせる事ができたという功績に繋がる。しかしそもそもこの英語での「Quality vs. Quantity」を「質と量」と訳しているが故にスレ違いが生じている。

(※別口だが、勿論、賛否両論はあるかもしれないが、私は「通信技術」に関しては一番の功績があった、と考えている。)

「質 と量」を英語に訳すと「Quality vs. Amount」である


Amountを「宿題」を題材に考えてみる。「宿題の数」というと、絶対的な個数や件数だが、「宿題の量」というと対時間だったり、対労力との関連性のより抽象的または相対的な内容である。

Quality の正しい訳は「分量」または数量


ともなれば、正しいQuantityの訳は「分量」または「数量」(もしくは「件数」、「案件数」、「売上」)だと。理由は「物理的に軽量できるか否か」というポイントである。そういう意味では「宿題の量」というのは計測が難しく、どちらかといえば主観が入っていると言ったほうが適切だ。

もし、「宿題の量」を言葉で表現するならば「一晩掛かっても終わらないくらい」や「手応えがない量」となる。これは英語のamountでも同じような感覚である。

一方、「宿題の分量」という考え方はどうか。もし仮に「宿題の分量」を言葉で表すと「50ページくらい」または「高さ5-6cmの教科書のうちの1cm強ぐらい」となる。この例文でも「~ぐらい」というアバウトな表現が盛り込まれているから本当の意味でもQuantityではない。本当の意味で適切なのは「理科5ページ、数学が3ページなど」などだろう。(因みに英語圏でもquanityの話をする時には「about 〜(大体〜)」や「roughly 〜(大雑把に〜、ざっと〜)」という表現が使われる事が多い。)

昔の人は「目分量」か好きなのは、実はこれは上記で記した「量」の枠組みに抑えたいからであろう。

Quality vs. Quantity の正しい訳は「本質と分量」


では、一番適切な「本質と分量」、良くて「質と分量」であろう。
日本のビジネスが平行線になってしまうのは「質と量(Quantity vs. Amount)」という2つの相対的な、似たもの同士を比較しているからなのかもしれない。

是非一度みなさんも、「Quantity」や「量」という言葉の使い方の比較をしてもらいたい。

以上

アメリカの大統領選挙と分断について

世の中は今、コロナ問題や大統領選挙に台頭されるような価値観・倫理観の分断が起こり個々人がどのような価値基準を持つかが問われる時代になってきていると感じている。もちろん中には陰謀論説を唱えるものもいれば、これは民衆対既得権を持っている富裕層の考えと捉える人間もいるかもしれない。どの説を唱えるのも良いかもしれないが、最終的には間違いなく、「自分」という人間の価値観を捉える以外に方法がないのかもしれない。

20世紀、そして21世紀はかつてアインシュタインが唱えた、量子力学そして相対性理論が主に定義した社会なのかもしれない。しかし、それは簡単な日本語で言うと、我々は皆繋がっている、または連なる存在であること。(量子力学)そして、ものの捉え方は人それぞれであり、「相対的である」と言う事他ならないのではないではないだろうか?(相対性理論)

また、通信・移動技術、そして金融システムによって、特にインターネットという仕組みによって我々は時空間という存在を概念的(思考的に)変えることができるようになった、ある意味我々の住んでいる社会を”Hack”することができるようになったのかもしれない。例に取れば、金融でいう融資や投資という概念は「未来を先取りする考え」であり、負債は「過去を今(または未来)を使って精算する技術」であり、ZOOMなどのビデオチャットはとある場所への移動、または大きな会合であるほどその会合を実施するにあたっての「調整時間を省く技術」だ。また、本来であれば、物理的に会わなくてはならないものもサイバースペース(今ではクラウドだろうか…)の中で会えるようになった。ある意味、Zoomをしている間は本当は瞑想状態にあり、我々は各々「夢の空間」でテレパシー的な会話をしているだけなのかもしれない。そういう意味では、時空間の制約があるならば、これは全て取り払われている状態にある。

そして、今起こっていることは人間の言語的・価値観的な対立である。ある意味、片方を攻めて、片方を肯定する行為というのはこれは全て「言論の自由」や「選択の自由」または「自由意志」というものの考え方なのかもしれない。近しい価値観である人との距離が近くなれば、自分の意見が表現できる。それを1)受け止める、はたまたは2)礼儀・節度を持って他人が「はねのける」というブロセスや経験を重ねることによって自分が見えてくるのかもしれない。そういった意味では、争い事はなるべく避けたい物だが、「自分という個人」を把握するためには今ほど良い時はないのかもしれない。

日本のような国に住んでいると「和」という概念や「国家」という概念で個々人の存在意義が二の次になりやすい文化だ。しかし、我々はみんなそれぞれの個体であり、それぞれの意識を持っている。漫画「アイ・アム・ヒーロー」に出てくるような巨大な集合意識帯になる、というのは非現実的であると思いたい。しかし、かと言って、「スター・ウォーズ」や「機動戦士ガンダム」のようにジェダイやニュー・タイプに急激なスピードで目覚めてしまうと、望まない争いにもなりかねない。そういう意味では、「個」の形成の方法を考えなければならない時代に突入しているのかもしれない。

社会で「個」が成立するのは一つは「自分勝手及び自分本位」、それと「他人や環境要因の尊重」なのかもしれない。つまり、自分を主張する=他人を否定するではないという形、たまには意見の「衝突」があるが、かわいい張り手や、おしくら饅頭的なイメージなのかもしれない。だからこそ、子供時代にじゃれあったり、喧嘩をする事はとても重要になってくるのかもしれない。そういう意味では何かしらの対峙・対立や押し合いへしあいがあって、それぞれの人が形成されるから、多少の雑さや荒っぽさ、というか力技が必要になるのだろう。

今では、FacebookやSNSがとても盛んだが、世の中にはDunbar number というものがある。これは親密な友達は5人まで、15人の良好な関係の友達、50人の友達、150の知り合い、1500の顔見知り・馴染み、そしてプレートーによれば5300人までなら一人の人間で民主的に統治ことができるのではないかと言っている。ある意味24時間、週に7日しかないので、人間には時間の限りがある。またそれに加えて、趣味・思考の考え方の違いがある。つまり、そういった意味では、こういう考え方を持つことは重要である。

How Many Friends Can 1 Person Have?

いずれにせよ、今アメリカ合衆国で起こっていることは実は「正と誤り」の戦いではなく、個々人の価値観の形成や言論の自由のバランスの取り方なのだと思う。(それと法律、という意味での「法」との関係)この波はすぐに日本及びアジア地域にも何らかの影響を及ぼす、という考え方から自分自身ももっと「個」の形成について考えていきたいものである。

以上

AIDMAから5A

私が社会人になりたての頃はAIDMAが中心だった。

  1. Attention(注意)
  2. Interest(関心)
  3. Desire(欲求)
  4. Memory(記憶)
  5. Action(行動)

つまり、「お客様に買わせるまで」でプロセスが終わるという事。

しかし、最近では5Aという概論をコトラーが新しく提唱しているそう(数年前に日本の電通などが中心となって提唱しているAISASと共通点が高い考え方だそうです。)

■5A
認知(Aware)→訴求(Appeal)→調査(Ask)→行動(Act)→奨励(Advocate)

下の記事ではAIDMAについて、コトラーの5AとAISASの共通点などが記載されています。

捉え方は色々とありますが、一つの見方によっては昔は商品やサービスの知識・活用法について「売り手>顧客」だった構図がなりたたくなってきていて、実際にはユーザーの方が良い使い方などをしっているケースが多くなってきているという考え方もできるのではないかと思います。

「つくる側が商品・サービスを熟知していないなんておかしいじゃないか!」なんという考え方もあるかと思いますが、捉え方によっては「騙し合い」が減って、商品力などもよくなっていくのではないかと楽観的に見ています。

以上