Japanese humbleness 謙虚さについて

「謙虚さ」というのは日本文化の中でもとても魅力的な一面である。このあまり主張しないことにより、相手を不快にしない、または相手を快くする礼儀作法、というよりは「習慣」となっている日本文化を語るにあたって欠かせない要素だ。昨今の訪日旅行者の多くもこの礼儀作法を実際目にして、自分たちの生活の中に取り入れたい、という理由だけでくるものも少なくはない。

今、日本は私たち今生きている世代が記憶にしている限りで一番世界から注目を浴びている、それも尊敬の眼差しでのそれだ。

もちろん今までも日本が注目された時代は過去半世紀〜1世紀前に幾度とあった。しかし、それは全て日本は何かしらの方向で「攻め」の要素があった。高度経済成長もなんだかんだ言って「劣化製品」とラベルを貼られていた「Made in Japan」が急激な勢いで北米の市場を塗り替えた。高度経済成長期の終焉とも言える80年代後半〜90年代は、マーケットシェアだけでなく、アメリカ大手自動車及び電気会社の会社を閉鎖に追い込み、ニューヨークマンハッタンのビルを買い漁っていた。世界的に見てもある意味黒歴史であり、この高度経済成長期終焉とも言えるバブル期は、間違いなく今のトランプ大統領当選の府線を引いていた。これはこれでまた別の話かもしれない。しかし、こんなにモラル的に?良くないことをしていたとしても、日本の「Made in Japan」は常にトップクオリティの製品品質を保っていた。これがなかったら、日本もアメリカからの経済制裁を受けていてもおかしくなかったであろう。いずれにせよ、この日本という国は今、明治維新から始まった「功罪」の数々を晴らすことができるチャンスなのかもしれない。つまり「攻める」必要なく、世界が注目している。それに加え、食品から自動車、音響、テレビ、家電まで全て「Made in Japan」、20-30代からすればこれに加えアニメ、マンガ、ゲームソフトなどがあり、まさに生活の360°どこを見回してもトップクオリティは日本製。まさに今日本は海外諸国からしたら今まで「ノーマーク」であり、今やマルコ・ポーロが求めた幻の「黄金の国ジパング」となりつつあります。この数年の日本好きを「カミングアウト」して来日するオタクやマニアの若者達は「マルコ・ポーロの生まれ変わり第1波」とも言える。もちろん、このようなケースでは、大体の場合過度な期待感で、実際想像していたものとは違う。コロンブスの時代も、「インド」と思われたアメリカ大陸に上陸した際は、さぞイメージしていたものと違ったのだと思う。しかし、今の日本の場合は書物や映像(マンガやアニメ)もあればそれらの証拠となる「Made in Japan」があるから、大抵の場合そう期待感とのギャップは生まれない。では、海外から来た場合一番「見えづらく」、ギャップが生まれやすいところは何かと言うとそれは日本人の「気質」や「品格」だ。

悲観と謙虚は同意語のようで違う

では、海外から見てわからない日本人や日本という国の「気質」と「品格」はなんだろう?それはあらゆる面で「物腰のやわらかさ」を演出するのことができる「謙虚さ」だろう。しかし、今ここに来てこの「謙虚さ」が少し難解な事にも気がつく。

謙虚である、謙遜することはあるが、気がつかないうちに思ってもいない悲観的な事をあまりにも連呼するような風習が日本人のなかである。これが一般的なグローバル社会でされているそのものとは少し性質が違う。簡単に言うと、「冗談のつもり」で言った悲観的な発言も真に受けてしまう、諸外国の人は多い。よって、あまり度が過ぎると「感じが悪く」なってしまう。

謙遜をし過ぎると「後出しジャンケン」になってしまう

日本という国で生活するからには実はあまり公にして「強気な発言」をすることは難し、い、理由としては和を乱す要因となるからと何よりも格好悪いからだ。だからみんな周りの平和のためと、身だしなみのために「謙虚さ」を使う。

しかし、こう言った発言は実は後に、「後出しジャンケン」に繋がってしまうことが多々ある。つまり、今回のグローバル社会の面でもよく目にするが、「観光立国なんて絶対無理だよ」なんて言っていた人に限って、「時代はインバウンド」なんて言ったりしちゃったり(笑)、特に問題はないのですが、あれまで「無理だ」と言い切っていたのに、急に全開で勢いに乗ってしまうと少し見ていてもたじろぐ姿がある。

「正義(Justice)の国アメリカ」からすると、このような行動は嘘つき(Liar)としてみなされる可能性がある。アメリカ社会は実は「大げさなまでの誇張」は好きだが、実は「嘘をつく」ことは大の嫌いである。アメリカで小学校生活を送った人なら馴染みの「唱和」にも最後の文章が「With liberty and justice for all(それぞれ個々人の自由と正義あれ)」とある。アメリカでも法廷を設定とした映画で聖書に右手を乗せ oath(誓い、誠実と正直さの)に屈するシーンがあるが、途中で相手側弁護士の尋問責めに対してウソを言えずに精神崩壊してしまうシーンなども、ある。Bluff(かわいいウソ)は大丈夫だが、本当の嘘(lie)は地獄への片道切符そのものである。まあ、簡単に言うと昭和の頑おやじの「男に二言はねぇ!」のそれとだいぶ似ている精神論だ。

「時流に乗る」「流れに沿う」は日本社会でも許容されている考えだが、アメリカ社会のように厳密なまでの法整備ありきの現代国家の人々にとっては、少し違和感のある考えであるようだ。よって、ちょっとその場で謙虚なつもりで発言したつもりの悲観的発言を真に受けてしまい、後に「え?前ああ言っていたのに!」と突っ込まれてしまう日本人はそう珍しくない気がします。

ただし、唯一「歯がゆいけどOK」なのは日本語の持つ「あいまいさ」だと思います。「結果はわからないけど、今はこう思う」程度ならどんな社会の人でもなんとか受け入れる事ができると思います。しかし、「投げやりな謙遜」つまり、あまりに度が過ぎた「悲観的な謙遜」は後味嫌な結果に繋がる可能性もあります。

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