51:49の考え方

※個人的メモ。

 

51:49の法則

gray and black moon
Photo by Soumen Maity on Pexels.com

現代の社会になってから、多分これはこの4000年ないしは2000年ないしで根付いてきた考え方だろうが、「人間は誰しもが平等」という理想論がある。私個人としては幼少期から引っ越しが多く(15歳までに10回の引っ越し、8歳の時点で8回引っ越していた。。。)とイギリスやアメリカという移民が多い地域や、日本も神奈川県のなかで転勤族が多い地域で育っていたため、色々な人と出会っては去っていく、という体験から、同時にいくところいくところにいつも以前の住居地で会った人に出会う、という体験から、なんとなくみんな平等なんじゃないかと思っていた。もちろん齢を重ね大人になるにつれ、社会的にはやはり「上下」というよりは家柄やその他の環境要因、または単なる偶然のめぐり合わせによって、それぞれの人の差を目の当たりにした。しかし、同時にそれは目の前のまやかしであるということも高校時代ぐらいにふとした同級生との会話から気づくことなどもあり、やはり何かの面で人間はみんな平等なんじゃないかと、感じることがある。

そこで思いつくのが、2人の人物だ、一人は漫画「島耕作シリーズ」で有名な「島耕作」という架空の人物、そしてもう一人はJordan Petersonというカナダで有名な臨床心理学者だ。

個人的には社会人になる頃から、「島耕作」を読むようになった。たまたま日本のIT企業に入ったため、実はリンクする話が多かった(日本IT業界は日本の電気会社が方向転換したのちに作ったグループ会社などが多い)。出世話や、地方での支店長の苦しみなど、漫画ながらも読み返してみるとリアルなストーリー描写がたくさん入っていた。そんな中である一話で主人公である島耕作がふと漏らした一言が印象的だった。それは「人生は結局プラスマイナスゼロなんだな、、、」と言ったこと。架空の設定とは言え、これ日本最大手の企業のひとつである「初芝電気」の役員になった島耕作のことばであると同時に、ある程度の成功を収めた弘兼憲史の本人の言葉のようにも聞こえた。つまり、人生色々な場面で人はそれぞれのプラスとマイナスの「清算」を感じるような時が来るのだろう。若いながら、そんな気兼ねで社会人生活に挑めたのは本当に良かった。

Jordan Petersonは近年 Youtubeなどを中心として人気のあるカナダ人男性だ。臨床心理学者ながらも大学での講義や、パブリック・スピーキングなどを通し現代社会の、特に、若年層の男性のこころの持ちようや人生・キャリア設定または精神の成長について話している。キャラクターもかなりにきつめなので、インタビューなどでも度々攻撃されるような場面も多いようだが、彼は所謂「男性性」というものについて言及している。色々な言葉を端折ると、彼は社会に於いて若い人が活躍したり、成功を収めるためのモチベーションを養うためには、「男性性」を養うことが鍵であると主張している。同時に社会の中での「統制」を保つためにも、「男性性」が鍵になっているが、現代人にはこれらを養うための知識や心持ちが不足している、という主張だ。(もっとご覧になりたい方はYoutubeで「Jordan Peterson」と検索して欲しい)。そして、彼が言うには「人間には能力や財力などの環境要因の平等は存在しないが、機会の平等が存在する」と言っている。つまり、人はそれぞれ、それを「選択する」という「自由」があるという主張だ。

この2人の人物が主張していることはそれぞれを指すと思う。1つ島耕作が言った「人生は結局プラスマイナスゼロなんだな、、、」という人生の運命は決まり切ったこと、ということ。そしてJordan Petersonが言う「機会の平等」は人間には選択する自由・権利がある、という考え方だと思う。私はそんななかでも、やはり、人間として与えられているのは「感じる」または「想う」自由なんじゃないかと思っている。

これもある意味、それぞれの人間に与えられた平等の権利であると同時に、実はうまく、循環していけば際限なく創出することができるのではないかと正直思っている。人間はやはり、その場面その場面で、「感じる」自由が与えられているし、その感じ方も実はその個々人のある程度の「自由」によって左右される。日本語でも「一期一会」や「刹那」または英語では最近「Living the moment」や「mindfulness」などという表現がある、つまり心の持ちようで例え人生が決まりきまった運命をなぞっているだけでも、全然違ったストーリになるのではないかと思っている。(私個人としては運命で決まりきった事はないと、信じている)つまり、身体の導線や人生での出来事はある程度決まっていても、「こころ」は意外と自由なんじゃないかと個人的には信じている。

また別の観点としては「平等」という言葉があるとどうしても「50:50」というある数式というか方程式を思い出す人も少なくないだろう。しかし、私個人としては完全なる50:50というのは難しいのではないかと思っているし、逆に「50:50」を狙うということはあまり地球、または宇宙的な法則として間違っているのではないかと思っている。そこで個人的には「51:49」という数式で考えるようになっている。何故そう思うか、理由は主に2つある。

1つ、としては世の中には様々なコミュニケーション(対話)やネゴシエーション(交渉)の研究がなされている。「ハーバード式交渉術」なども有名ではあるが、基本に色々な流派のネゴシエーション術に於いても、「50:50」というのはあり得ない、という主張をする教授が多い。物理的に考えても多分そうだろう。少しばかりの「摩擦」がなければ物事は止まってしまう。だからこそ絶えず、ちょっとしたインバランス(アンバランス)がある方がちょうどいいのだろう。

また、大学時代のコミュニケーションの授業でもやはり「別の人間同士が100%分かり合うことは不可能」だったり、「コミュニケーションは基本的にファジー(曖昧)である」ことから、そんな正方形のような100%均等的な表現をすること自体が多少のナンセンスであることは言うまでもない。また我々の日常生活を考えても、一年は365日ないしは366日だし、時間は24時間、12か月、身体全体は206本の骨だし、頭蓋骨も22個の骨に覆い囲われている。つまり、50:50という「100」基準にした10進数、さらにそれを均等1/2を元にして考えている方が不思議なのである。人間も存在は「裏」と「表」だけではない。もっと複雑な生き物のはずだから、ここも実は「平等」のためにインバランスをキープする必要があると思う。

また、同時に会話はほぼ必ずと言っていいほど「話しかける人」と「話しかけられる人」がいる。つまり、

双方が同時に話し始めない限り50:50というのは到底考えにくく、なにかしらのインバランスが生まれることになる。こういう意味ではやはり、いつも少しバランスを崩して考える方がいいのである。

つまり、何が言いたいかというと「人間は基本的に機会の自由」そして「選択の自由」があり、そして「こころの持ちよう」は本人次第である。そして、生で始まり死で終わり、ある意味の「清算」を迎える人生なので、あればいくら平和主義、平等主義であって自分の考えを優先する、自分本位である「51:49」の考え方を実施すれば良いのではないかと思っている。

グローバルの社会でもそうだが、今後は「自分」及び「地域」「コミュニティ」「国家」または「地球レベル」で自分が思うこと、つまり「意見」を述べていく必要性がでてくると思う。世界的には平等を目指しているかもしれないが、個々人レベルで「何の平等を求めるのか」を主張、または意見交換することが必要になるのではないかと思う。

以上、

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